「働きすぎる思考」を手放す最初の一歩。


「働きすぎる思考」を手放す最初の一歩。

女性教員専門ライフコーチの蒼井櫻子です。


同僚や先輩の先生に「ほどほどにね」と言われて「それがわかったら苦労しないんだよなぁ…」と内心思ったこと、ありませんか?


私も何度も思いました。


心配して声をかけてくれること自体はありがたいものの、「ほどほど」というボンヤリした言葉をどう受け止めたらよいのかわからなかったのです。



高校時代の三者面談でも、塾の面談でもそうでした。


いつも母は「この子は頑張りすぎるので、それだけが心配です」と先生にボヤくのですが、私にはまったく心当たりがなかったのです。



完璧主義・最上志向であること、優等生気質であることには昔から自覚がありました。

どこからやってきたのかわからないけれど、それ自体は「良いこと」だろう。



今回は、私が働きすぎに至った要因を子ども時代の環境から紐解いてみました。

自己理解を深めるヒントになったら嬉しいです。


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「働きすぎる思考」とは何か?


長時間働きすぎる、仕事を多く受けすぎる…のような事態に陥る先生がいらっしゃいます。

それを選択させている自身の思考のことを「働きすぎる思考」とシンプルに呼びたいと思います。



私の場合は…


  • 誰にも文句を言われないような仕事をしなければならない
  • 人に褒められ、認められるような取り組みをしなければならない


というようなもの。


それらが完璧主義・最上志向、極度の心配性にあらわれると自覚しています。

今回は参考までに、私のお話をしてみたいと思います。


自分のケースはどうかな?と照らし合わせて振り返ってみてくださいね。



「まともな人間」でいるのをやめた幼少期。


私が最近読んでいる本に、社会学者・心理学者である加藤諦三先生の著作があります。


以下、少し引用しますね。



自分が神経症気味だなと感じている人は、「良い子だなあ」と言われたいがために、自分は一体どれだけの犠牲を払ったか考えてみることである。


「良い子だなあ」と言われるために、自分をまともな人間でなくしてしまったのである。


なかでも、怒ることを禁じられた家庭生活において悲劇の子は末っ子である。一番弱い立場の子は一番いじめられ、からかわれ、一番不当なことに耐えさせられる。

(出典:加藤諦三『自分に気づく心理学』(愛蔵版)PHP研究所(2006))



いかがでしょう?


私は、まるで当時の自分の心を言い当てられたような衝撃を受けました。

本書のレビューを見ても、私のケースが決して珍しいのではなく、割とどこの家庭でも起こるんだなと感じます。




私は末っ子で、親戚のなかでも、近所の子どもたちのグループでも、一番下くらいにいました。

いとこやきょうだい、幼馴染みからすれば、大変甘やかされた人間に見えたでしょうし、大人から見てもそうだったと思います。



しかし、私としては「そもそも甘やかされるために、媚び売ってますから!」という処世術にすぎなかったのです。



末っ子にとって、年上の子どもたちは全員敵。

命を脅かす存在でした。



だから、大人に媚びを売って守ってもらわないといけない。

末っ子が告げ口をすると言われるのは、そういうことではないかなと感じる時もあります。



私は幼稚園に上がる前から、自分を偽る生き方をしていた記憶が明確にいくつもあります。



「ここにいていいよ。子どもたちが認めなくとも、大人がOKなんだから」と許可をもらって庇護を受けるために媚びていたわけです。



だから、周りの大人たちから要求される正解を出し続けることになり、勉強も得意になったのではないかと思います(決して「勉強好き」ではなかった)。



高校・大学・大学院を経て、そういう生き方をする必要はないとわかり、なりを潜めてくれていましたが、ピンチやメンタルダウンに陥るとにょきにょきと出てくるのです。


そのトリガーになったのが、就職直後の「新人いびり」でした。



標的から外れるために、気に入られたい。


辞令を受ける前から始まった「新人いびり」。


同期はいっぱいいるのに、なぜか私が標的に。


私の当時の思考は、今から考えるとちょっと変でして…。




標的から外れるために「相手に気に入られよう」としました。



「こっちの理想通りに働いてるね」と標的から外してもらいたかったわけです。



それは、幼少期の私と同じ思考だと感じます。



新人いびりに遭い、誰かに助けを乞うこともできなかった状況がトリガーとなり、【大人の庇護を受けるため、媚びを売る】という癖が顔を出したという気がします。



「言うことを聞いてますよ!」とアピールするために、勤務時間を延ばしたり、たくさんの仕事を生みだしたりしました。



先輩から注意されたことをすべてカバーし、先輩の理想とする教員像を体現するには、まだやっていないことを探してやるしかないと思いました。


教員という職業柄、どれだけでも「やったほうがいい仕事」なんて見つかるものです。



ところが、どれだけやっても「こんなんじゃ、また〇〇先生に怒鳴られる」という不安が消えず、食事や睡眠の時間も仕事に充てなければならないという状態に陥りました。


…まぁ、そりゃ鬱になるよねぇという具合なのです。




ゆるしてほしいのは、まともじゃない幼少期の私。



職員室で仕事をしていると、幼少期の私が当時周りにいた大人まで連れてきました。


「一生懸命やってて偉い!」

「頑張ってるね」「おりこうさんだね」

「お前は要領がいい」


子どもの頃は、どれだけ大人から褒められても、表面的な言葉に居心地の悪さを感じました。

私の精神的な苦労など誰にもわかるわけがないでしょ!と。



でも、守ってもらうには、褒められるしかない。

何もやらないという選択肢は存在しない。



結局、私が闘っていたのは先輩たちではなく、「相手の正解を探して庇護を受ければ生きられる」と囁いてくる子ども時代の自分だったのです。



あの子から解放されたい!


それこそが、私の「働きすぎる思考」のすがたです。



思考のほうから離れてくれる。


自分の「働きすぎる思考」に気づいて輪郭がみえてくると、思考自体が少しずつ離れてくれることに気づきます。

完全にはなくなりませんが、向こうのほうから距離を置いてくれます。



「もうその生き方は、私に必要ないんだよ」と幼少期の自分に言うことができるので、違う考えや行動を意図して選択することができます。



闘病中に手帳を使ってプランニングを始めたり、自己理解を深めたりするなかで、たくさんの実験をしました。



かつて先輩に迎合する発言しかできなかった会議中、ベラベラと意見を述べて、ときには管理職と言い合いになるという大失敗も経験しています。



失敗を重ねて、ようやくちょうどいい立ち居振る舞いを身につけたわけですが、「言いたいことを言えない」「言いたくないのに言わされる」ということがなくなったのは、とても快適です。



退職を同僚に報告するなかで「え、なぜ起業…?」と怪訝な顔をする人もあるなか、「あなたほど優秀な人はいない。もっと一緒に仕事をしたかった」とこちらが恥ずかしくなるような熱い言葉をくれた先生もいます。



そういうわけで、結果オーライだなと今では思います。



「働きすぎる思考」は大変根深いものですが、気づいて理解することができると離れて行ってくれるんですよね。


【頑張りすぎちゃう先生のための自己理解ワークショップ】でも、その出どころをさぐっていきますので、開催するときはぜひいらしてくださいね。


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