頑張りすぎの先生が“足りない”から抜け出す「ある」へのシフト。


頑張りすぎの先生が“足りない”から抜け出す「ある」へのシフト。

こんにちは。

教員専門ライフコーチ蒼井櫻子です。



あなたは人と比べて落ち込むことや、自分に“ない”ものばかりが気になってしまうことがありませんか?



そんなときによく聞く言葉がこちら。



「ある」に注目する。



正直、きれいごとに聞こえたし、見るべきものを見ないふりをする危うさも感じました。

それでも「それいいね!自分に必要だわ」と思う自分もいて、どこかに引っかかっている…。



当初、そんな不思議な言葉でした。



今回はセッションのテーマや、最近読んでいる『ポジティブ心理学の挑戦』から着想を得て【「ある」に注目する】について自分なりに考えてみました。

あなたも「自分の場合はどうだろう?」と考えながら読んでみてくださいね。



👉 見る(YouTube)

👉 聞く(stand.fm)


“ない”ばかりに目が行く私たち


人は“欠如”や“エラー”に敏感であると、いろいろなところで目や耳にします。



「人間の脳には、エラーを判定するための脳機能は存在するものの、わざわざできたところを無意識的に探ろうとする脳機能は備わっていない。だからこそ意識的に探っていかないと、できた部分の情報処理はできない。」

—青砥瑞人『BRAIN DRIVEN』ディスカヴァー・トゥエンティワン(2020)位置1855



「人間の脳の持つ破滅的な傾向」

―マーティン・セリグマン『ポジティブ心理学の挑戦』ディスカヴァー・トゥエンティワン(2014)p.58

※ この出版社がそういう主張を好むのかもしれない…。




今の自分の感覚なら、どういうことだろう?と考えてみます。



  • パートナーがいない

  • 結婚しない

  • 妊娠しない

  • 子どもがいない

  • マイホーム、財産がない

  • 自信の持てる容姿がない

  • 他人のように上手く仕事ができない

  • 知識や技量がない



ざっと思いつくだけでも、これだけあります。



平均的でない、一般的でない、「みんなと同じ」でないというのが、とてつもなく大きな不安や恐怖を生みます。



結婚する気がないことに自負すらあった私でも、結婚・育児をする人を見ては「みんなと同じものがほしい」という感覚がどこかにありました。

詳しくはこちらの記事▶「普通が大嫌い」だった私が「自分はまともだ」と証明したかった話。


教員が切実に「平均以上」でありたいと思う理由。


私たちのなかで最も厄介だと思うのは、平均・一般・常識・当たり前という一種のボーダーではありません。



それが模範解答だと思っていることや、自分の現地点と距離を測って、「だから合格/不合格」と評価をしている自分自身なんですよね。



私たちは「平均・合格点より上」「上から数えて何番目」のように、同じ基準に人間を並べて判断され、自らも判断してきました。



学生時代、それが当たり前だった先生は少なくないはず。



さらに教員としても、生徒を同じラインに並べて、評価しなければなりませんし、高校教員であれば留年か進級か?のキーマンになってしまうことさえあり得ます。



(試験で計れない特性や強みを持つ生徒にはよく出会うし、評価を書くことで彼らの素晴らしさを削ぎ落としかねないことは重々承知でありながら)



学生時代から地続きで、同じ物差しで人を測り、順位をつけなければならない環境で生きて来た人にとって、余計に基準や平均が気になると思うのです。



おそらく、平均点と比較して自分が十分でないようにみえたときに、一瞬だけ自責思考になることは避けられません。



そのときに「今、ジャッジしたよね」と気づいて「それはそうなんだが、他の部分はどうなの?」と冷静に見てみると、できている部分に注目することはできそうです。



  • 責める必要はない。
  • それを手に入れるために動きたいのか?
  • 誰かの力を頼る方がいいのか?



一旦落ち着いて考えてみると、自責の2発目、3発目の矢を回避することはできるのかもしれません。


持ち合わせていないもので闘うから消耗する。



「ある」に注目することは、強みを活かして貢献するという意味でも理解できそうです。



あなたは、身を削る感覚に苛まれることがありませんか?

私はよく「予備電源で動いている」という表現をします。



ヘトヘト、クタクタで本当のところ足もよろめいていて、出せるものはもう何もないはずなのに絞り出すように働く。



なぜそれをやめられなかったのか?



私は、持ち合わせていないもので生徒や同僚に貢献しようとしていたのかもしれません



持っていない素質、技能を要求されているのに「ありますよ」と言って、絞り出す。



ないものを無理矢理ひねり出しているので、自分でも「それ違うじゃん!」とわかりきっているのです。



そこで登場するのが“足りない”の感覚。欠如している部分を何とか埋めようとするので、違うものができあがったり、できるまでに時間がかかったりするわけですね。



持ってないことを自分で認めたくないから、何とかひねり出したり、自らの形を変えようとしたりして辛くなる。



それは気力や体力の面でも同じことです。「まだできる?」と聞かれて、もう限界なのに「できる」と言ってしまいませんか?



このように、文字通り身を削っていたわけですが、あなたの場合はどうでしょうか?


ここで、私が持ち合わせていないものを書き出してみます。ご自身も挙げてみてください。



  • 人に囲まれての業務(職員室や休み時間の廊下にいるのが苦手)

  • 整理整頓、掃除

  • 電話、クレーム対応

  • 名前を知らない生徒への指導

  • スピード感の求められるタスク



一方で、持ち合わせているもの(時間が過ぎるのを忘れるほど没頭できる得意なことと定義しておきます)はこちら。



  • 質問対応、面談

  • アイディア出し

  • 刊行物や試験の作成、校正

  • 科目の専門性、授業



自分の持ち合わせているものはいわば強みです。これに気づいたのは、一人で働き方を見直しているころ。



「得意なことで生徒と向き合えばいい」「それ以外は6割でやる」



仕事は楽しくなったし、志望大学への合格を含めた指導も充実感をもって取り組めた感覚があります。



「ある」に注目するとは、自分の強みや特性を活躍させて貢献することだという答えに辿り着きました。あくまで私なりの答えですが。



生徒と向き合うときに「ある」に注目する先生は、多いですよね。



テストで満点や目標点に届かなかったとき、今後伸ばすべき部分はもちろん見るけれど、「ここまでできてるよ!」とできるようになった部分も一緒に見ているはず。



それを自分自身にもやってみてください



  • 「ない」に注目して不安になるのは自然なことだと知り、その瞬間に気づく。

  • 「ある」に注目して、自分がもっているもので貢献する。

  • 子どもたち、生徒たちにしていることを自分にもやってみる。


もっているもの、できていることに敢えて目を向けてみるのは意識して初めてできることです。意外な強みや、新しい価値観を発見することがあると思いますよ。