他人の親切に「すみません」が出てしまう理由。


他人の親切に「すみません」が出てしまう理由。

女性教員専門ライフコーチの蒼井櫻子です。



あなたは同僚に優しくしてもらったとき「ありがとう」ではなく、「すみません」「申し訳ないです」と言っていませんか?



私は教員になって数年は、お礼よりも謝罪をすることが多かったと思います。


高校~大学院までは、悩みはすれど比較対象や「見習うべき相手」もおらず、自己肯定感は高め。




「優秀で完璧でなきゃ、自分も他人も価値がない」

「生き抜くためには大人に媚びる必要がある」



幼少期に生み出した棘だらけの物差しは、奥底にしまうことができていました。



ところが大規模校に就職した私は、権力闘争に巻き込まれ、少数派である女性教員のいちコミュニティに絡め取られてしまいました。


自己肯定感が木っ端微塵に吹っ飛んでしまったのです。


早々に苦手な先輩や上司に守られるには、参戦するしかないという判断に至ったんですね。



先輩方に優しくされると「私のような人間にお手を煩わせて申し訳ございません」と思っていました。



相手によっては「代わりに何をやれと要求するつもりなんだ、この人は…」と疑い深くもなりました。



実際は、まったくの見当違いだったとしても、です。



さて、今回は読書体験をヒントに「優しくされると気が引ける心理」についてまとめてみました。


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尻拭いをされるような居心地の悪さ。


紹介するのは、加藤諦三『自分に気づく心理学』(愛蔵版)PHP研究所(2006)。
社会学者、心理学者でラジオ番組『テレフォン人生相談』のパーソナリティでもあります。



  • 同僚に助けてもらったときに「すみません」と言うのが癖になっている。
  • その行為の裏に大きな要求があるのではないかと疑う。
  • 何とも言えない居心地の悪さを感じる。



そういう生き方、すごく疲れると思うんです。

私も元来そうですから。



ところで、学生時代にアルバイトしていた個別指導塾でこんなことがありました。



授業が終わったら一人一人の記録を書いて、机周りを掃除するというルーティーンがあり、自分の分が済んだら他の机も掃除するということがお互いに行われていました。



あるとき、他の先生が使っていた机を私が掃除すると「すみません、申し訳ないです」と数回お辞儀をされたんですね。



私は、逆に申し訳なくなってしまいました。



それ以降、何かしてもらったときには「ありがとうございます」「助かります」と意図的に言うようにしていました。



(ただ、心の内では「すみません」が出そうになるんですが)



…とはいえ、謝りたくなる気持ちもわかる気がします。



「誰かが手伝うほど、自分は仕事が遅くて迷惑をかけている」

「誰かの手を煩わせることは、自分の落ち度、失敗、配慮不足である」



尻拭いをしてもらったような感じがするというわけです。



親切にしてもらったときも、業務上のミスを修復するために手伝ってもらったときも、程度の問題であって、ほとんど区別がないのではないかなとも考えています。



さらに、本人はどうしてそういう態度になるのかわからない。



そもそもすぐに謝ってしまうこと自体を悩ましく感じる方もいらっしゃいますよね。



自己肯定感の低さ、自信のなさを露呈するような気もするし、監視されているような気になったりもして辛いはずです。



しかしながら、そういう人こそ「完璧主義」と言われるのではと考えを巡らせました。



完璧主義は、甘えられなかった結果。


完璧主義な性格のことを、精神科医は「執着気質」「執着性格」と呼ぶそうです。

しかも、それは鬱病と強い結びつきがあります。



今回取りあげた『自分に気づく心理学』では、執着性格について以下のようにありました。



執着性格の人の心理について考えてみよう。


彼は表面では生真面目で、社会的にはよく適応している。他人の期待をかなえようと努力する。何かうまくいかないことがあると他人を責めないで自分を責める。

引用元:加藤諦三. 自分に気づく心理学(愛蔵版) (p.31). PHP研究所



何を期待されているのか深く汲み取り、期待を超えなければならないと頑張っている姿は、何だか自分にも重なりませんか?


他人を責めずに自分を責めるというのも、冷静な原因分析を通り越して自分を罰せずにいられないという具合にも見えます。



さらに続きます。


意識のレベルでは自罰的であるが、無意識のレベルでは他罰的である。

―同上



ちょっとドキッとしませんか?

その人の本質、内側に秘めているものは表に出ているものと正反対であると言わんばかりの一文。



真の大人は、そういないかもしれない。


加藤先生いわく、“(本当の意味で)大人というのは、自分の存在に自分で責任を持つ人のこと”。



一方、“自分の存在に相手の責任を追求することが「甘え」”ともありました。



どうしてあなたは期待する通りに振舞ってくれないの?と怒ったり、自分の存在を他人で確認しようとしたりする人をイメージしてみてください(恋人への依存など)。



子ども時代に甘えの欲求が満たされず、親に十分甘えることが許されなかった人は、その欲求を抑圧して成長するので、大人になってからも甘えの欲求がバンバンでてきてしまいます。


けれど、甘える大人というのは大変みっともない。だからそれらしい理由をつけて、誰かを責めたり、要求を押し付けようとしたりします。



例)「教員の仕事ってこういうもんだから」

例)「教員なら〇〇すべきなのに、あの先生はしない」

例)「私が若いころは、先輩より早く帰るなんてありえなかったのに、今の新人はどうなの?」



そう考えると、本当の意味での大人というのは、どれだけ身の回りにいるのだろうか…という気さえしてきますね。



私は子ども時代を振り返ってみると、生きるために「甘えた」という自覚があります。

(甘えるという仕事をして、その対価として生存権を得る)



※ 前回のブログでもお話しているので、気になる方はご覧くださいね。



本当は他人に甘えたい、家族やパートナー、友人、同僚に甘えたい。

無責任でありたい。ルールや常識を無視したい。



でも、それは悪いことだと教わってきたし、大人になれば余計にかなうことはありません。
無条件に「よしよし」と受け入れてくれる大人がいないのですから。



だから、いつまでたっても心は不安で緊張しているんですね。



こういう人は、生真面目で遠慮がち、控えめ、他人の目が気になるという性格になる方が多いそうです。



以下のような動きにまとめることができます。



人に甘えたい、満足させてもらいたい。

⇒ でも甘えるのはみっともにことだから抑圧してきた。

⇒ 大人になったらもっとみっともないので、さらに抑圧する。

⇒ 反動形成で、逆に相手を満足させなければならないと感じる。

⇒ それを相手に投影させ、相手が満足させてほしそうに見えてくる



「〇〇先生は、私にこれを期待・要求しているんじゃないか」



こんな風に他人の心の内を見てしまうんですよね。



行動や思考パターンがわかるほど付き合っている相手なら当たるときも当然ありますが、全然見当違いだったということもあります。


ところが、私たちは生存本能としてネガティブなことをよく覚えてしまいます。

「ほら思った通りだった!」という経験ばかり強く覚えているものです。



相手の期待に応えたい、満足してもらいたいと思っているのは、自分が精神的に成熟したからではありません。

甘えたいという欲求を抑圧した結果なのだと読んだとき、驚きとともになんだか納得してしまったんですよね。



このように甘えの欲求を抑圧して育った人は、反動形成で規範意識(ルールやモラルへの意識)が非常に強くなる。

そこに他人によく思われたいという目的が合致して責任感が強い人になっていきます。



心当たりのある先生、いらっしゃいますよね。



ただ、本書では責任感の強い人のことを「これ見よがしの責任感」と指摘しています。



無理をしたり、一生懸命やっていますよというのが漏れてしまう。



健康状態は悪くないけれど、しんどい顔になっている。

それはアピールだったのか…と、自分を振り返ってドキッとしました。



外れていない気がするから怖いものです…。



心から求めているから受け取れない。


さて、本題に戻りますと…


人に親切にしてもらった、よくしてもらったという好意に気が引けてしまうのは、それを心から求めていることに自分で気づきたくないからということなんです。



本来、素直に好意を受け取ることで欲求が満たされるにもかかわらず、甘えること自体は悪いことだと教わったから受け取れない。


ストレートに受け取れば、半生をかけて形成した自分自身を否定することになりますから防衛するしかない。



結果、「ありがとう」にならないというわけです。



ところで、成熟している人=本当の意味での大人と、甘えの欲求を満たされないまま成長した人との明確な違いは何だろう?と思いませんか?



それは与えることに心理的負担があるかどうかです。



・相手に与えるべき、与えなければ…

・相手が満足する仕事をしなければ…

・でも、満足してくれなかったらどうしよう?



「べき・ねば」や「納得してもらえなかったらどうしよう?」と思うのであれば、心理的負担があるといってよさそうです。



成熟している大人は、「したい・しよう」で動きますし「納得してもらえなかったら〇〇する」と気負いがないものです。



いわゆる自分軸がある人というのが、成熟した大人なのかもしれませんね。

「自分軸」という言葉が一般化するわけですね。耳が痛いです。



いかがだったでしょうか?



『自分に気づく心理学』は、痛いところをピンポイントで狙ってくるような鋭い表現もあります。


けれど「その気持ちわかるよ、こうだよね」とピッタリ言い当ててもらえるような不思議な感覚になります。


ご興味ある方は、ぜひ読んでみてくださいね。